付知の伝統芸能【翁舞】は能ではなく文楽

付知の伝統芸能【翁舞】

岐阜県中津川市付知町の翁舞

  • 翁舞の今昔

付知の秋の例大祭には、五社巡祭(ごしゃじゅんさい)というものがあります。

五社とは、倉屋神社若宮八幡神社子安神社水無神社大山神社のことを指します。例大祭は年毎に交代で執り行われます。

はじまりは倉屋神社の祭礼で、【翁舞(おきなまい)】が奉納されていたことです。

倉屋神社では、七月十六日に祇園※1祭(ぎおんまつり)が執り行われます。そもそもの翁舞の起こりは、清和天皇の貞観(じょうがん)十一年(895)六月に疫病退散の祭りを行ったことであると伝えられています。

延宝(えんほう)から天和(てんな・てんわ)※2にかけて疫病が流行しました。この病を赤腹(赤痢(せきり))※3といい数多くの人が病にかかり、亡くなりました。

疫病で亡くなった人の数が多く、埋葬が追い付かず、人里離れた川原に捨てたと言い伝えられています。また、川原のあちらこちらに点々として飛び石のようであったとも伝えられています。この病死者の霊を祀ったのがあかはら様※4で、赤腹の疫から守ってくださる神様です。あかはら様にはススキの穂を供えて詣(まい)る習慣があり、これは赤腹が流行するときにより熱心に行われるようです。

五社巡祭は、この赤腹の壊滅を願って産土神(うぶすながみ)※5の御守護を祈ったことがはじまりです。

天和元年(1681)の大飢饉を契機に翌年天和二年(1682)、六代目庄屋田口忠左衛門慶寛翁の発願により、今井長四郎氏の協力を得て、田口天王社(現在の倉屋神社)に阿波人形※6を操り、翁舞、三番叟(さんばそう)※7を舞わせ神の御霊を安めて、お祈りし天下泰平処繁盛五穀豊穣悪疫退散を祈願しました。

幸いにもこの年は疫病もなくなり、常にない豊作に恵まれたため、翌年は今井氏の氏神(うじがみ)※8であった若宮神社の祭礼に招かれた。この年も大変豊作で氏子は皆、幸せな年でした。そこで、子安神社・水無神社もこの行事を取り入れるようになり、村内一巡して以来四社奉納巡祭が始まりました。

昭和三年(1928)に大山神社が加わり、現在の五社巡祭へと発展しました。

  • 翁舞、式三番叟の由来

平安時代から寺社の神事芸能として行われていた猿楽(さるがく)※9が、南北朝時代、足利将軍家など、武家の保護を受けて一躍猿楽能として栄えるようになるが、その能の表芸(おもてげい)※10としたのが【翁】である。

この【翁】はもともと、父尉(ちちのじょう)・翁・三番叟という三人の老翁の相(姿)で表現される三人の神が、次々に出て舞う儀式舞で、式三番とも称した。後に、父尉が千歳(せんざい)と称する若者の役に変わったが、「式三番」の名称はそのまま使われた。能ではこれを番組※11の冒頭に演じて、天下泰平国土安穏五穀豊穣を祈る神舞(かみまい)※12と崇めた※13

  • 付知の翁舞(式三番)

付知の翁舞(式三番)は340年にもわたり、秋祭りの主役として続けられています。これは全国的に見てもはるかに古い歴史を持っていることになります。

天和二年(1682)、六代目庄屋田口忠左衛門慶寛翁の発願により淡路人形(阿波人形)を操り神に奉納したのが始まりです。

能狂言※14には新年や特別な祝い事に【翁】と【三番叟】を舞う伝統がありますが、これを文楽※15の人形で舞わせるのが付知の【翁舞】です。付知の翁舞は文楽と能が融合した貴重な文化財として全国の研究者から注目を浴びています。

付知の【翁舞】の面白いところは、演じている人形に改めて面を着けることです。そうすることで、翁などが通常の人物ではなく、特別に変身した役を舞うものであることを今に伝えているのです。

文楽で能の【翁】が演じられることは不思議な気もします。しかし、人形芝居は浄瑠璃を取り入れる前から能の曲目を演じていた時代が長く続いていました。こうした古風な姿は【翁舞】の特徴の好例といえます。

また、【翁舞】と切り離せないものに【三番叟】があります。室町時代の中期頃から、翁は天照大神・千歳は戸隠明神・三番叟は春日明神をかたどるといわれています。翁は神聖にして特に重んじられ、三番叟の春日明神は百姓の神として前半(樅(もみ)の段)では田畑を耕し作物の種を蒔く支度と害鳥の追い払い、後半(鈴の段)では天下泰平処繁盛五穀豊穣悪疫退散を祈り種を蒔く。神聖な儀式曲として一日の最初に行われ、神事として伝承され舞台を清める意味を持っています。三体の人形が目出度く舞うことによって、人の長命と天下泰平処繁盛五穀豊穣悪疫退散の祈祷をするのが趣向の中心です。

まず演者一同は鏡の間にて祭壇の神酒(みき)を戴きたる後神前にて、この舞を舞うものである。

昭和55年9月吉日 岸宏史 謹書

意訳 付知ばあちゃんちスタッフ

※1…祇園とは、京都の八坂神社(やさかじんじゃ)のことで、須佐之男命(すさのおのみこと)を祭った社のこと。社号は天王神社(てんのうじんじゃ)。

※2…延宝元年~九年(1673~1681)。天和元年~四年(1681~1684)。江戸時代。

※3…赤痢とは伝染病のひとつ。赤痢菌・赤痢アメーバが激しい下痢を起こさせて血便の出る病気。日本での最古の流行記録は平安時代。

※4…赤痢から守ってくれる神様。付知の役場前の松林に、あかはら様が祀られています。

※5…自分が生まれた土地を守護する神様のこと。生まれる前から死んだ後までずっと見守ってくれるとされる。引っ越しや結婚などでその土地を離れても、一生守護してくれている。

※6…一般的に、阿波人形浄瑠璃に使用されている人形のこと。

※7…儀式舞の名称。室町時代の能役者・世阿弥(ぜあみ)が書いた『風姿花伝(ふうしかでん)』によると、祭式のとき猿楽66番を演ずるのは長すぎるため、それを3番にしたのが式三番である。近世になると祝言、儀礼として舞う狂言の『三番叟』のことを式三番というようになった。

※8…同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神様のこと。同じ氏神を信仰する人々を氏子という。

※9…日本の伝統芸能で、滑稽な動作をしたり、曲芸をする。後に能や狂言のもととなった。

※10…習熟していなければならない技芸のこと。当時はこれが【翁】であった。

※11…ここでは演芸の組み合わせの順番のこと。

※12…能楽の一つ。男神がさっそうと速いテンポで舞うもの。

※13…とても尊いものとして敬う。大切にするという意味。

※14…日本の伝統芸能の一つ。能(謡いと囃子による音楽要素を持ち、能面をもちいる演劇)と狂言(仕草とセリフによって表現される喜劇)。能楽における狂言のこと。

※15…人形浄瑠璃のこと。江戸時代から続く伝統芸能で、語り手の太夫・三味線弾き・人形遣いが一体となって表現する舞台芸能。植村文楽軒という興行師から名を取って、文楽と呼ばれるようになった。

  • 重要無形民俗文化財

岐阜県中津川市付知町の翁舞に使用される文楽人形

昭和55年2月9日 付知町「重要無形民俗文化財」指定。

平成9年1月7日 岐阜県「重要無形民俗文化財」指定。

地芝居大国ぎふWEBミュージアムさんで、付知町翁舞のアーカイブ映像を見ることができます。

  • 各神社についてのブログはこちら

お参り日和編2・倉屋神社

お参り日和編3・大山神社

お参り日和編4・一宮水無神社

お参り日和編5・子安神社&竜田神社

お参り日和編6・若宮八幡神社


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